すっかり忘れてた。

すでに現象がでていることもあるが、どうも意識は聞こえていても、行動できない。まるで、夢遊病のよう。しかし、子供の頃から、夢遊病があったので、別にキにすることはない。そのほうが、霊性は高いと思う。しかし、それが果たしておかしいかということは別だ。それはオタクの一種で、自分の趣味の領域であれエバ、別に問題はない。今、その趣味で生きていける人もいるからだ。それが時代ということだろう。

 

昨日、午後6時すぎ人が来た。大きな声で、地代と言っていたので、頭にきて、こちらも、でて、大きな声で話すと、声が大きと言われたが、先に大きな声を出したのは、来たほうだ。何を言うのかということから始まった。よって、先に話していたことがどうやら聞いた。いつもは朝。しかし、夕方6時以降に来るのはどうかと思う。よって、その集結として来たこともあるだろう。しかし、それは、初めの頃と同じ形態だ。よって、その頃からのえまほということだろう。

 

本来、結果を求めるなら、考えるが、どうしてここで考えるのだろうかということを知ると、たぶん納得する答えの一つだと思う。そのひとつひとつの言動にどうやら、不安、疑問を抱くようになったのかもしれない。

 

よって躊躇なく、ことを勧めていくほうが、より安心だということだ。きっと、同じような時間をかけていくことだろう。それだけ、手際よくこなすことも今後必要な課題でもあるのだから、己のためにということだ。これからの時代には、必要な能力かもしれない。そして、歴史を学び、教訓を活かす。それが、すきを与えないということだ。特に、昔の映画を見ていると、そう思うことがある。結局、国に奉仕していた人のほうが、能力は高いということだ。それを利用してかどうかは、次の事。

 

よって、ある程度のことがなされたなら、伺うこと。それがその相手に必要な礼儀でなないだろうか?そうだからと言って、自分が勝手にしゃしゃり出るのはどうかということだ。そこをわからないということは、果たしていかがなものか?

その国の状況をどこまでとは言わないが、理解できないと、できないこと。それを今まで時間をかけて、このような状態でもあるのに、果たして、その軽はずみな行動が、相手にとってどのような影響を与えるのか、もう少し考えていかないと、しつれい当たる。それだけでなく、どのようなえいきょうを,あたえるのか、まったくりかいできていない。はたしていかがなものか。ましてや,うそを、いいかねない。しようするかは、べつとして。しかし、できないのにしようは、ない。

 

いままで,ふしょうじは,しっていたけど ,しにいたることはなかった。いまだに ぎもんである。はじめのころのジから、うごいたということは、 たしか。

とつぜんへんい、これが、むかしつかっていたことば。きゅうにへんぼうする。あかずのまより、たちがわるい 。それこそ ,きの、ながれをつかまないと、ほかの じょうきょうでは、しあわせぼけと、いわれるであろう。

そのように、にぶいひとを、はたして、やとうであろうか?いや、やとわないだろう。それは ,じんせいに も、いえること。

 

とにかく、そのようなかんがえももてないというひともおおいということだ。じょうしきは あっても。しかし ,はなしていないから、どこまで,

かんがえることができるか、さだか ではない 。よって,いわれても、はなしを ごまかしているだけにしかすぎない 。そこで,はくあいかどうか も、りかいできる。

 

やはり、しゅだいは ,わすれてはならない。ということだ。みえないけど、かんち。そのまえの げんどうとして,こうどうから、くる?きづくかどうか。そのためにも、シュダイ をわすれてはいけない、とおもった。

ふりかえると、さまざまに おもう。しかし、これはということで,おやのけんでは ,すみだった。ひとこと、いいたいのは、ありがとうございます。それからだ。さすがですね。といいたい。かんしゃの ことばは ,じぶん でいまいいたいことばだからだ。つけたしとして、いうなら,その きもち、ふうを りようしてのもんだい を、ひきおこすという、はっしょう。あたまいたい。めにみえない、むじしょうのときは ,ときとしてことばに だすひつようは あり。げんじつならまだしも。でも すごくいたいときは、やはり ,くちに だす。おおくが そうだとおもう。それを たえるといういみあいは?また, レキシからくるイマ のじつじょうを、どう リカイ できるか、いまある、ほかの、もんだいを、おきざりにも しているようにしか、おもえない 。そのけっか が?